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ミラノの日常 第2弾

昨日

 

ミラノにはバドミントン専門の体育館、PalaBadmintonがある。

 

 

 

中高時代バドミントンをやっていたし、次男が習い事を一時バドミントンにするか空手にするか決めかねていた際、トライアルにいったことがある。また友人同士で体育館を借りて練習も数回やった。流れで10時間の専門コーチとのトライアルレッスンをグルポンで申し込んだ途端に骨折。結局グルポンの有効期限が切れてしまい、そのままだった。

 

今回その友人に声を再びかけてもらい、5年ぶりに練習に顔を出してきた。

 

そのグループは有志数人で集まり、実際セリアBだかCで今だ活躍されておられる70歳のある日本人の方にコーチをお願いしているという。ちなみにミラノにはセリアAで活躍されておられる日本人選手もいる。

 

暖かい日が続いていたが、週が明けた途端に霧と寒さのミラノ。自転車で出かけたが、寒いのなんの!汗かくかな?なんて甘かった。いきなり、「ではウオーミングアップに、フットワークをしましょう」、という。ほぼ30数年ぶりとはいえ、歩幅や動きというのは、体が覚えているもの。素振りもそうだが、「打った後は、すぐに腕を上げて!」 「フレームが曲がってるよ!」「あっはい...」でも30年ぶりなんで、アバウトでしか覚えてないんですが...と思ったが、元高校のバドミントン部のコーチでもおられたというN氏。容赦なし。一応、私、30年ぶりなんですが...一応50過ぎてるんですが...高校生レベルの練習内容? 勘弁してよ!でもはっきり言うと、空手の組手の方がもっときっついわ...爆

 

休憩という休憩もなく、ちょっとした隙に水を飲みに行く。首の周りが汗でグッチョリ。それは空手の時よりもすごい汗。でも結構動ける...いけてる私?と思ったが、あれよあれよという間に右の手首からの肘の間までの外側の筋肉がじわじわ痛んできた。来た来た来た!普段つかってない筋肉をつかっているぞ〜。

 

二人組になってハイクリア、ドライブ、ヘアピンなどをこなし、最後にコーチとスマッシュの練習。「君ね〜、スマッシュ70点。でもレシーブの方は40点ね」だーかーらー、私は30年ぶり。40点だって上出来。それよりも、これから数日身体中が痛くなって動けなくなるのでは?その方が心配。最後の30分は、試合形式でダブルスの試合をしたが、知らないうちにルールが変わっていたから驚き!(2006年に日本で開催されたトマス・ユーバ杯期間中に行われた現・BWFの会議において、サーブポイント制からラリーポイント制に正式採用されたそう。)一般的ストロークはできても、やはり試合になると、フレームに当たってカキ〜ンといったり、空振り、足は出ないわ...で試合になんぞなりません!

 

あっという間の2時間だった。いい汗かいたけど、やはり筋肉痛が怖いわ〜。帰宅して、すぐにオラトリオに出かけなくてはならなかったが、とりあえずメンバーとビールで乾杯!グラスを持つ手が思い切り震え、いやそれ以前に思うようにグラスがつかめない! まずい翌日は空手の稽古だ!拳が握れない!ヌンチャクもあるぞ!棒術もあるぞ!下手したら、飛んで行ってしまうかもしれない!!(今晩は、身体中湿布を貼って予防。私は、ミイラかい?!)

 

今回声をかけてくれた友人によると、イタリアには数多くの連盟や協会、そしてそれに所属するチーム、教室があるようだが、ランキング的にはSeria H(セリアアッカ)からあり、ポイントごとにクラスが上がっていくのだという。「一応目標を持ちたいので、セリアHから始めようと思って...」というではないの???「じゃあ、ユニフォームとかTシャツそろえないとね〜」と、どうしても軽いイタリア人的発想になってしまう私。皆で大笑いすると、コーチがぼそっと「いや、まずは基本でしょ!」とおっしゃる。は〜。

 

何事にも言えるのは、基本が全て。そういえば、武道には「守破離」という言葉があるけれど、これは、学ぶためにはまずは型を「守る」。それが基本。そこができるようになれば、自分なりに型を「破る」。そして最後は守る事にも破る事にからも無意識に「離れていく」というもの。

 

ドMの私。ハマったら、大変。自分で自分の首を絞めてしまうことだろう。今回は、まずい。はまったら身を滅ぼすことだろう...

 

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-11349037902.html

http://www.badminton.it/home.asp

2日前

 
 
今週、友人夫妻の元に赤ちゃんが生まれ、昨日会いに病院へ出かけてきた。

ぽにょぽにょと愛らしく、純真無垢でまるで天使のよう。

我が家の子達も、元天使だったが、今じゃなんであんなに悪魔のようになってしまったのか?!

朝、起こすだけで「モーーーーーウ!」と怒り出す。だったら、自分で起きて来い!食べてる時間がない!とか、洋服がない!とか新しいノートがない!とかとにかく、朝から大騒ぎで、出て行くまでが戦争のようだ。なんで前日から準備できないかな〜。なんで朝からこちらまで嫌な気分にならなきゃいけないかな〜。

ところで、長女の高校時代もひどかった。大学生になり、家を出て、感謝の気持ちを発してくれるようになったが、帰省すれば、すぐにまたギクシャクしてしまう。勉強だというが、外出ばかりしているので、まともに話す時間がない。なので、私が、今日は何時に帰ってくるの?ご飯はいるの?どうなの?と最低限のことしか聞かないけれど、それも面倒というか鬱陶しいようだ。やはりある程度の「距離」というのは必要なのかもしれない。長男とて同じ。

以前、「思春期は海の波のようなものだ」と書いた。行っては帰り、行っては帰り..だからだろうか?長女、長男の態度からすると納得するものがある。

とはいえ、渦中にいるとたまらない。もし、この時期に、バツ悪く更年期障害にぶつかろうものなら、寝込むわ!と思う。

しかし、思春期は誰もが通る道。大人に対し、何かと批判的になることも多いが、それは自分を客観的に見ることができるようになった証拠かもしれない。自立心が芽生え、干渉を嫌う。けれど完全に放って置かれることも、時に「見捨てられた」と思うこともあるらしい。じゃあどっちなんだい!矛盾を感じるが、親は、常に毅然とした態度で答えなければならないと考える。

なのに、次男と来たら、空手の稽古中、ふっと近づいてきては、私に膝カックンをお見舞いしてくれる。このアホ〜!本気で走ってやり返しに行く。子供は親を見て成長する。つまり「子供は大人の鏡」。ということは、私もアホで、幼稚ということか...あちゃ〜。

...と冗談はさておき、子供から正面切ってぶつかられるのは、こちらも傷つくし、かなり精神的に滅入るもの。私はそこまで両親を悲しませただろうか?

こちらはアメリカのドロシー•ロー•ノルト博士の書かれた「こころのチキンスープ 愛の奇跡の物語」より引用した詩。
 

『子どもは大人の鏡』

 

子どもは、批判されて育つと
人を責めることを学ぶ

子どもは、憎しみの中で育つと
人と争うことを学ぶ

子どもは、恐怖の中で育つと
オドオドした小心者になる

子どもは、憐れみを受けて育つと
自分を可哀想だと思うようになる

子どもは、馬鹿にされて育つと
自分を表現できなくなる

子どもは、嫉妬の中で育つと
人をねたむようになる

子どもは、ひけめを感じながら育つと
罪悪感を持つようになる

子どもは、辛抱強さを見て育つと
耐えることを学ぶ

子どもは、正直さと公平さを見て育つと
真実と正義を学ぶ

子どもは、励まされて育つと
自信を持つようになる

子どもは、ほめられて育つと
人に感謝するようになる

子どもは、存在を認められて育つと
自分が好きになる

子どもは、努力を認められて育つと
目標を持つようになる

子どもは、皆で分け合うのを見て育つと
人に分け与えるようになる

子どもは、静かな落ち着いた中で育つと
平和な心を持つようになる

子どもは、安心感を与えられて育つと
自分や人を信じるようになる

子どもは、親しみに満ちた雰囲気の中で育つと
生きることは楽しいことだと知る

子どもは、まわりから受け入れられて育つと
世界中が愛であふれていることを知る

 

あなたの子どもはどんな環境で育っていますか?


以前、子供の悩みを友人に話していたら、涙が出てしまい、聞いてくれていた友人も「わかる、わかるよ〜。子育て一生懸命だからこそ、辛いんだよね〜」と一緒に泣いてくれたことがある。はっきりいって今は当時より、もっと辛い。

けれど考えてみれば、ある意味、子供の「思春期」は「世界で一番やりがいのある仕事」「価値のある仕事」なのかもしれない。子供と向き合い、いつか自分の子育てに誇りと自信を持てますように。

 


http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12153326067.html
http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12164299869.html

3日前
 
ミラノのドウモ広場に突如として椰子の木が出現し、反発を招いている。

この植樹プロジェクトは、第一弾として高さ5メートルもある椰子の木が42本植えられたのだが、今後はバナナの木も植える予定だと言う。ミラノ南国化計画?!

しかも、そのプロジェクトの後援が今年の秋、ついにミラノにオープンするStarbucksだから、余計に反発を覚えている人も多いようだ。今まで何度もStarbucksがオープンするという話はあったが、イタリアのバール協会がかなり反発していたという話。バールは、小銭ではあるが、一番収入のある仕事だと言われている。それが外国勢が入ってきてしまっては、今後の経営もたまったもんじゃない!と言うことで、一斉に反対しているようだ。

また、TwitterやInstagramを見ると、この話題がもちっきりで賛成、反対と分かれているようだ。

反移民、反EUを掲げる政党「レガ•ノルド(北部同盟)」のサルビー二書記長は「ドウモ広場に椰子の木とバナナ!あとはラクダと猿を連れて来れば、イタリアの中にアフリカが完成する!」と、痛烈な皮肉を言っている。
 


しかし、ミラノ市長である中道左派のジュセッペ•サーラ市長も100%納得していないようで、「現時点、一人の市民として」の意見、判断は差し控えるとし、「基本的には嫌いではないが、歴史的な建造物がある」と濁している。

少なくとも、4月に始まる聖週間の初日である「枝の主日」はオリーブの枝ではなく、ドウモ限定で、「椰子の枝」というのも、悪くはないかもしれない。苦笑
 
ちなみに、イタリアの中世後期を代表する画家·Giottoが描く、「エルサレム入城」では、ナツメヤシが描かれている。
 
 
3日前

 
地元パロッキアの聖歌隊にはいり、かれこれ4,5年が経つだろうか?

どうせ、ミサに出て歌うのだから、聖歌隊に入ったところで同じ。週に1度の練習ならばなんとかなるだろう?と軽く考えて入隊。練習は常に平日の夜9時から。指導者である司祭やシスターたちが夜しか時間が取れないのだから、仕方ない。しかも、彼らは下手したら、一般の社会人よりも仕事をしている。お給料というお給料もないし、生涯を神に捧げる決心が揺らいではできないもの。

ところで、昨年の秋あたりから、ミサにおける聖歌の選曲係となった。

月一度の日本人ミサでも聖歌の係になり、毎月ミサの前に、神父様の元へ直接出向き、どの曲を歌うか一緒に選択をしたものだ。カトリックの典礼は3年で一度一巡するので、A年、B年、C年のミサ及び聖歌の選曲リストは表になっているので、現在はそれを参考にしている。

教会によって、またその指導者によって、聖歌の選曲は司祭がしたり、係に託したりするようだが、地元パロッキアに関しては、今までは、音楽担当のシスターや神学生が選曲していたが、私のような一般信者に振られたのだからさあ大変。叩き台となるサイトはあるが、あくまでも例。やはりその日の朗読場所を読み、黙想し...なんていって選曲していると、どれだけ時間を費やすことか!
 
その後、表にして司祭にメールで送付し、どこがどう変更するかは、すべて任せるのだが、練習の時点で、それが知らない曲だったり、難しかったりしようものなら、「誰が選んだの?」「なんでこの曲?」と聖歌隊のメンバーからブーイングが入る。初めの頃は、長女と同い年の大学生の女の子と協力して選曲していたが、たまたまた私が不在の練習日に、ブーイングの嵐に遭い、激怒、そして落胆。もうやってられない!といってその任務を降りてしまった。

さあ、どうする私?私もまず時間がないんですけど... せっかく選曲したところで、訂正ばかり入るのならば、専門の聖職者の方々がやったほうが時間も省けるし、良いのでは?そして、遠回しに私もこの係から外して!と書いたが、うまく伝わらず。いや、伝わっていてもわからないふりをされたのか? しどろもどろの私に、「貴女しかいない」「貴女の信仰の助けになるから」と言われてしまうと、しゃーないなー、とついついいってしまう。苦笑 結局、細々と苦し紛れに任務続行中。けれど、一度受けたことならば、やはり喜びをもってしたい。

...というわけで、早くも四旬節に向けて、選曲のため勉強中。ミラノは全世界の「ローマ典礼」とは違い「アンブロジアーノ典礼」。当日の聖書朗読の箇所も違うので、手引きの本は手放せない。それを読んでまずテーマを心に留めることが大切。もちろん、それ以前、アンブロジアーノ典礼のカレンダーを把握しておくことが大前提だ。そして、それぞれの行列やら意味、特徴の理解。カトリックの幼稚園及び小学校と隣接しているので、時に、幼児たちも一緒に歌うこともあるし、オルガンだけでなく、ギターも取り入れたテンポの速い曲も入る。

「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイ3:16)

共同体のささげるミサの中で、信者全員が心を一つにして歌う聖歌は大切な祈り。ただ、我がパロッキア、というかイタリア人、人と心を合わせる前に、私!私!と主張する人、多し。人の声(歌声)、聞かないし...苦笑

聖歌に関わる奉仕者は、本来、聖歌の選曲以外に、自らが神への賛美と感謝を捧げながら、共同体が積極的にミサに参加できる様促す役割があるが、なぜか聖歌隊内での、心の一致のため、歌いながらも目を白黒させている今日この頃..
 
 
 

 

5日前

 
 
2月1日
Dio desidera che tutti gli uomini si riconoscano fratelli e vivano come tali, formando la grande famiglia umana nell’armonia delle diversità
神は、多様性の調和のなかで大きな家族を形成しながら、すべての人が兄弟が皆同様に暮らしていることを認識するよう望んでおられます。


2月2日
La vita consacrata è un grande dono di Dio: dono di Dio alla Chiesa, dono di Dio al suo Popolo.
奉献生活は、神からの偉大な贈り物です。 神から教会への、神からその民への贈り物です。


2月3日
Non dimentichiamoci mai di pregare gli uni per gli altri. La preghiera è la nostra maggior forza.
お互いに祈るのを忘れないようにしましょう。祈りは、私たちの最大の強みです。


2月4日
Agisci! Vivi! E davanti alla tua vita, alla tua testimonianza, qualcuno ti chiederà: perché vivi così?
行動しなさい。生きなさい。あなたの生き様に、あなたの証を目にして、誰かが尋ねることでしょう。「どうしてこのように生きているのですか?」

 
2月5日
Chi non crede o non cerca Dio forse non ha sentito l’inquietudine di una testimonianza.
神を信じていないか、求めていない人は、信仰の証言の不安さを感じていません。


2月6日
Diventare credenti significa imparare a vedere con gli occhi della fede.
キリスト信者になるということは信仰の目で見ることを学ぶという意味です。
 

2月7日
Ascoltiamo il grido di tanti bambini schiavizzati. Nessuno resti indifferente al loro dolore.
多くの奴隷の子供達の叫びに耳を傾けましょう。誰も彼らの痛みに無関心であってはいけません。


2月8日
Chi favorisce la tratta di persone è responsabile davanti a Dio. Preghiamo per la conversione dei cuori. 
人身売買に関わる人たちは、神の前では過ちを犯した人となります。彼らの心が回心されるよう祈りましょう。


2月9日
La speranza apre nuovi orizzonti, rende capaci di sognare ciò che non è neppure immaginabile.
希望はわたしたちに新しい地平を開き、想像すらできないことを夢見るのを可能にしてくれます。


2月10日
Stiamo vicini ai fratelli e alle sorelle che vivono l’esperienza della malattia, e alle loro famiglie.
病気と共に暮らす兄弟姉妹、または彼らの家族に寄り添います。
 

2月11日
Desidero incoraggiarvi tutti a contemplare in Maria, Salute dei malati, la garante della tenerezza di Dio per ogni essere umano.
皆さんが、病者の健康である聖母マリアの中に、人類すべてに向けた神の愛の確かなしるしを見つめることをお勧めします。


2月12日
La dignità dei bambini va rispettata: chiediamo che sia eliminata la schiavitù dei bambini-soldato in ogni parte del mondo.
子供の尊厳は、守られなくてはなりません。世界のどこででもおきている子供の奴隷化、兵士化は排除されなくてはなりません。


2月13日
Non poniamo mai condizioni a Dio! Fidarsi del Signore vuol dire entrare nei suoi disegni senza nulla pretendere.
決して神に条件を課さないようにしましょう。主に自らを委ねるということは、何も求めず、ただ主のご計画に従っていくことです。


2月14日
È bello sapere che il Signore si fa carico delle nostre fragilità, ci rimette in piedi con pazienza e ci dà la forza di ricominciare.
主が私たちの弱さを背負い、忍耐を持って止まり、また再び歩み始める力を与えてくださることを知るのは素晴らしいことです。


2月15日
La cultura dello scarto non è di Gesù. L’altro mi è fratello, oltre ogni barriera di nazionalità, di estrazione sociale, di religione.
使い捨ての文化はイエスではありません。他の国籍、社会的分離、また宗教によるあらゆる障壁を超える他者が私の兄弟です。



Papa Francesco ‏@Pontifex_it 
 
〜•〜•〜•〜•〜•〜•

先日のAngelus•お告げの祈りでは、パパ様は「うわべだけではなく本物のキリスト者であるように」ということで、「殺人」と「姦淫」に言及された。

通常の人ならば、では、自分には関係ないと思いがちだが、パパ様は、「殺人」は実際人を殺すことではなく、人間の尊厳全てを損なう行為にまで及ぶと付け加えらえた。いかなる小さな、悪意、侮辱、悪口さえも、人を傷つけ、時には立ち上がれないくらいの力を持つこともある。

また、「姦淫」とて邪な考えや思いが、実際の大きな罪につながることもあるという。あ〜、夫を「岡田准一くんだ!」と妄想することさえ罪なのね。苦笑  、であれば、全く罪を起こしていない人などいないことになる。

キリストは、ファリサイ派や律法学者たちの正義を上回る正義をもって、神の御旨を誠実に真心を込めて果たすよう教えている。

キリスト者の正義とは、形式主義にとらわれることなく、愛と憐れみにいかされていなければならないともおっしゃる。憐れみとは,人に対して,本人が受けるに値しないほど思いやり深い行いをすること。

「あなた方の父が憐れみ深いように,あなたかたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ6:36)私たちも他の人々との関係において天の御父の示された憐れみの模範に従うことができる。自分の生活からおごりや高慢,うぬぼれを取り除くように努めることが...。他者の欠点に気付いても,憐れみの心を示し,敬意を表し,赦し,優しくし,根気強く接する方法を模索することができますように。




ミラノの日常 第2弾

作者:ミラノのそふぃあ

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで19年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

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