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ミラノの日常 第2弾

74日前

 

長かった冬休みも終了し、私の日常生活も始まった。

 

日曜日、オラトリオでは、ミサの後、オラトリオに関わる人たちが集合し、分かち合いのランチを食べてから話し合いをします、とのことだった。

 

話し合いって?なんで私がメンバーなんだろう。ミサに出て、聖歌隊で歌ってるだけじゃダメなの?いつも、同じことを考えてしまう。なぜ(司祭の)ドンRは私を呼ぶの?やる気になっても、オラトリオで子供達の喧嘩(特にアラブ人の子供達が来た時)に巻き込まれ、また自分の子供だけでも頭を抱えているのに、学校で落ちこぼれ、行き場のない子たちが集まり、汚い言葉は発する。言うことは聞かない。カテキズモに来る送り迎えの保護者は、そういった子供達のしつけの悪さを愚痴る。ああ、ここは私の居場所なんだろうか? 何度も自問自答してきた。

 

「T子、来るよね?」ドンからメッセージ。とほほ...はいはい、行きます。彼のペースにいつも巻き込まれてしまう。

 

ところで、オラトリオとは、ヘンデルの「メサイア」やハイドンの「天地創造」などの宗教的な題材をもとに、独唱、合唱、管弦楽から構成される大規模な楽曲のことを呼ぶが、その他に、サレジオ会のドンボスコが提唱したいわゆる教会学校みたいなところがある。語源はラテン語の「Orare=祈り」から来ており、実際は、祈りの場だけでなく、リクリエ-ション、勉学やあらゆる教育活動の場となっている。ドンボスコ曰く、「教育は心の問題」。ここでの教育の基本は「愛情、道理, 信仰」である。そして教育者は, 金銭や組織だけではなく、心をこめて献身的に働く人という意味。http://www.m-caritas.jp/vivadonbosco/141211.html

 

その教育者としてオラトリオに関わる人間が呼ばれたわけ。(私は月曜日のオラトリオの責任者)話し合いというよりは、いわゆる研修のようなもので、キリスト教的価値観を活かしたチーム•ビルディングのようなものが行われた。

 

ちなみにチーム•ビルディングとは、itamaに所属していた時、毎年スタッフ内で行われてきた研修で、目的は「仲間が思いを一つにして、一つのゴールに向かって進んでゆける組織づくり」のことをいう。しかも「ゲーム形式のアクティビティを用いた体験型のプログラム」を行うのだが、会社と違うのは、我々は一応同じ信仰をもつグループ。なので、その”知恵”と”目”、そして”心”を生かして、結びつかなくては意味がない。食事の際は45人いたが、それから帰宅する者、やって来る者あり、40名前後の人数で研修が始まった。まずは2つのグループに分かれ、ゲームをした。

 

ゲームといっても、半ば真剣なものなのだが、例えとして、ヴァチカンから一通の手紙が来て、余剰金として、教会のプロモーションや行事に関わる物事5項目に対し、いかにお金をつかうか、賛成派と反対派となって、意見を出し合うゲーム。あまりにも現実味のある例が挙げられた(修復問題、暖房問題、福音宣教問題などなど)。15分間、話し合いをした後に、チームの代表者がその結果を発表するのだが、偶然にも両チームの代表は、実際弁護士の職につく二人で、プレゼンテーションもうまい!とても、これはゲームなのか? 現実問題を討議しているのか? わからないくらいだった。

 

また、司会進行をするドンRの切り盛りがうまい!仲間への尊敬や信頼が増して、会話やコミュニケーションが活性化される。ちなみにitamaでは、専門家に頼まないと、堂々巡りになったり、話がスムーズに進まないことも多かった。

 

ところで、パパ様が提唱された今月1月のテーマは、キリスト者の一致である。すべてのキリスト者が、教会での霊的な交わりを取り戻すために祈りと愛の実践に努め、また、人類が直面しているさまざまな脅威に対処するために協力し、主の教えに忠実に生きることができますように。ということだが、まずは、教会内で霊的な交わりがなければ、その辺で行われている井戸端会議と何一つ変わらないだろう。

 

第2部は、2014年にパパ様が発表された使徒的勧告”Evangelii gaudium"(邦題:「福音の喜び」)を読んだ。第2章、「危機に直面する共同体」の中における102条、「教会におけるその他の課題」である。信徒における責任意識を促すものだった。ああ、この会議ならぬ集いはこれが目的だったのか...とふと思った。(またもやドンRの策略に乗せられてしまった!)ある重要な責任を担うポジションには、それなりの養成が必要だが、たいてい教会ではそういったものは行われていない。また、聖職者中心主義の教会だと、信徒は意思決定はできなかったり、表現や行動さえ見出せない場合もある。信徒の養成と福音宣教は、重要な司牧的課題であろう。

 

ブレークを挟んで、再びゲーム。3人ずつのグループが11つに分けられた。各チームに、ある病気の症状が宣告され、それは社会のどういった部分に現れているか? そして、処方箋として、①頭に、②手に, ③心に、何をすべきか?と問うものだった。私はなんと高校生の男の子2人と一緒のグループだった。ちなみにこれは、パパ様が2014年の降誕祭の挨拶の際、ヴァチカンが抱える問題点を「15の病」に例えて厳しく指摘し、またヴァチカンのみではなく、世界中の教会組織と信者の問題でもあると述べられたものを引用。http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0182.htm

 

例えば、私たちのチームは、「競争と虚栄心という病気」だった。外観、衣服の色、肩書きが人生の主な目的となってしまう時、わたしたちは聖パウロの次のことばを忘れてしまう。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(フィリピ2・3―4)。この病気はわたしたちを「欺く」人に変え、偽りの「神秘主義」、偽りの「静寂主義」に導く。聖パウロは、そうした人々を「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」と定義づけた。彼らは「恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていない」からです(フィリピ3・19)。....というもの。

 

①私たちは、まず、他者に対し、好意を持って接すことが大切。そして②手は、合わせて、共に祈る。③「口笛を習おう」ドンボスコにならい、相手の目線に合わせるために接点を探る。その他、相手を許す、謙虚になる。人を裁かない、相手の話を聞く、よく話す...そういった解決策を探した。

 

そっか...普段のオラトリオをはじめ、人間関係の中では、いかに自分中心に物事を見ているか、聖パウロの言葉を使うのならば、「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって作り上げてゆくのです。」(エフェソ4:15-16)

 

その後、祈りをもって終了したが、食事を含め5時間たっぷりの集いは、オラトリオに対し前向きになれた。共同体は、建設的に、そして継続的な組織作りが大切。そして誰でもが、心にキリストがいることを忘れないように...

 

 

 

 

http://www.donbosco.jp/japanese/donbosco/education.html

75日前

冬休み中、長女が帰省していた。が、ほとんど外出で家に帰ってくるのは夜中で、お昼まで寝ている。帰宅しない日も数日。会話という会話もほとんどなかった。トルコ旅行中も気付くと勉強ばかり。一時具合が悪くなり寝込んでいたが、私が見ていないときは、ずっと勉強していたようだ。

 

後からわかったのは、外にいてもずっと勉強していたようだが、食事はいるのか?帰宅するのか?業務連絡のみの連絡をすれば、うるさいと言われ、連絡をしなければ、ママは私に無関心だ、と怒る。挙げ句の果てに、長男がいい加減な生活をし、2留もしたのは、私のせい。次男が、ゲームに熱中し、食べてばかりにいるのも私のせい。なんでも私のせいにする。言い方が辛辣だからこちらも傷つく。

 

夫に八つ当たりで、長女のことを言うと、「しょうがないよ。それが母親の宿命というものだ。」と簡単に言う。そこでまた傷つく。なんでいつも私のせいなんだ?!

 

宿命ってなによ。漢字だけをみれば「命が宿る」なんですけど。



命・生命体は、平穏無事の明るい未来は約束されていない。誕生は「めでる=芽出る」ことで、喜ばしいことではあるが、その未来には必ず、生きるための苦難のドラマが待ち受けている。それが今なわけ?
 
「命」の定義は、「イ・射・尖り動くもの。古代の代名詞・汝・行きもの・生き物」+「ノチ=後世への血の道筋」を現す。「のち・後」とは「ノ・乗る」+「チ・血の道」=「子孫・生きて継続する血の継承」=「ノチ・後」を意味する。

ある仏教のサイトで、宿命の語は「因果律」という同一原因・同一結果という「律=生起の絶対規則」に対して、「因縁」という偶発的な「縁起=条件参入」という予測不可能の事態から引き起こされる結果に対して「観念せよ」という「喝」が与えられる。そこには、男女の結合のという偶然事象によって引き起こされた運命的な宿命の「律的存在」を観ることができる。ここにおいて必要となるものは「諦観」という「観念」である、とあった。「宿命」は「あきらめ・諦め」なわけ?

 

カトリックでは、「宿命」というか「運命」は「神のみ摂理」と考える。つまり神のご計画。そこで、「親の祈り」というのを思い出した。

 

 

「親の祈り」

神様
もっとよい私にしてください。
子どものいうことをよく聞いてやり、心の疑問に親切に答え、
子どもをよく理解する私にして下さい。
理由なく、子どもの心を傷つけることのないようにお助け下さい。
子どもの失敗を笑ったり怒ったりせず、子どもの小さい間違いには目を閉じて、
良いところを見させて下さい。
良いところを心から褒めてやり、伸ばしてやることができますように。
大人の判断や習慣で子どもを縛ることのないように、
子どもが自分で判断し、自分で正しく行動していけるよう、導く知恵をお与え下さい。
感情的に叱るのではなく、正しく注意してやれますように。
道理にかなった希望はできるだけ叶えてやり、
彼らのためにならないことはやめさせることができますように。
どうぞ意地悪な気持ちを取り去って下さい。
不平をいわないよう助けて下さい。
こちらが間違った時には、きちんと謝る勇気を与えて下さい。
いつも穏やかな広い心をお与え下さい。
子どもと一緒に成長させて下さい。
子どもが心から私を尊敬し慕うことができるよう、
子どもの愛と信頼にふさわしい者として下さい。
子どもも私も、神様によって生かされ、愛されていることを知り、他の人々の祝福となることができますように。 アーメン

 

あゝ、今更ながら「育児」は「育自」だと思う。

親は自分が持っていないものを子供に与えることはできない。優しい心の持った子供に育って欲しければ、自分がまず思いやりのある人となり、他人の痛みをわかろうと努力することが大切だ。

 

今日、教会のお御堂で子供に対し、また自分に対し祈った。私たちは祈ることによって、自分の不完全さ、思い上がりに気づき、また人の不完全さを赦す心のゆとりを取り戻すことができる。もちろん、祈ったからといってすぐに、心に平安が生まれ、上記の詩のように素晴らしい親になれるはずはない。けれど、祈る親と祈らない親では、大きな違いがあることだろう。

 

子供を叱ったり、落ち込んだりして、今度こそ「良い親」になろう、と思う。それを繰り返すのは人間なのだが...けれど、その繰り返しが、親も子供と共に育つと信じたい今日この頃...。

 

 

 

 

 

76日前

待ちに待った新年の稽古が始まった。初日はまずは千本突き。

恒例の門下生の目標が一気に道場の壁に貼り出された。

 

 

昨年師範は、「目標設定は自分だけのためではなく、他人の役に立つ目標設定をする」のが良い、とおっしゃっていた。だから敢えて空手に関した方がいいかなと思い、昨年の目標は、「稽古週4回、皆勤をめざす」だった。あくまでも”めざす”のだが、実際週4回稽古に出始めると、体がそうセットされてしまうので、一度でも休んでしまうと、体がなまった感じになってしまっていた。けれど、このおかげで時間のやりくりも無駄なくできた。「ママは空手が楽しいから勝手に週4回通っているだけで、あなたたちは義務じゃないし、自分の宿題や勉強をうまくやりくりして時間を作りなさい。ただし、やれるのにやらないのは怠慢!」子供たちにそう言い、判断は子供たちに任せた。今年の目標はそれを続行することにした。単に稽古の数だけ出れば...というのではなく、一期一会、一球入魂(あっこれは野球か!)、(じゃあ)一撃必殺(ポケモン技か?!)で頑張る、という意味合いで、「稽古週4回続行」にした。

 

さて、今日の初稽古は軽い準備体操から始まり、基本練習の後に、少林竜の型を数回練習した。そして指定された順番に正座。空手は礼に始まり礼に終わる。稽古を始める前には必ず正面に対し礼、宗家岡田先生に対し礼、師範に対し礼、お互いに礼をする。その後、心を落ち着けて精神統一するため、1分間黙想。

 

..というわけで、千本突きが始まった。師範と黒帯の指導者4名が最前列に並び、20回ずつ号令をかけ、合いの手を打つように我々が気合を入れていく。突っ立ったままの突きだったらいざ知らず、四股だからこそ辛い。昨年は4,50本あたりから左足が震えだしたが、今回は震えが始まったのは、200回あたりから。普段、床暖房が入っている体育館、今日は暖房が入っておらず、足元が冷えてたまらなかったが、いきなり体が熱くなってきて、汗がじわじわ出てきたのがわかった。子供達の叫ぶような気合いに負けないように、お腹の底から声を出す。昨年ほど雑念はなかったが、「無」になると、動きが惰性になりかねないから、集中力は欠かせられない。 ただただ自分にまけまいと思い、打った千本。最後の200本がきつかったな。

 

 

汗ダラダラ。膝ガクガク。喉ガラガラの千本突き。終了後皆で拍手しあった。達成感と心地よい疲労感。

 

その後、師範のご子息の三段補の審査が行われた。黒帯になると、段位の試験は誕生日のある月に行うと聞いていたが、そうだ!彼は1月生まれだったんだわ。

 

本来はあと100本蹴りがあったが、免除された。なんだ〜まだ余裕だったのにぃ。笑

 

 

それから5つのグループに分かれ、折り紙教室が開催された。私の担当は巨大折り鶴。今回全体で60人前後の参加者だっただろうか。思ったよりも少なかった気がする。体調を崩したり、仕事の都合でどうしても来られなかった人は仕方ないとしても、まだ旅行中だったり意外な理由で参加していない人も多く、これまた「礼に始まり礼に終わる」”始まり”なのにな...と思ったものだ。

 

千本突きはいい経験。子供たちにも文武両道で、どんな困難も乗り越えることのできる成長の年になってほしいもの。

 

 

 

「礼に始まり礼に終わる」

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12103580137.html

「人間をつくる道」

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12210431491.html

 

77日前

 

すっかり忘れていたが、今日は「エピファニア」(主のご公現)の祝日でお休みだった。

 

”エピファニア”とは、幼子イエスへの東方三博士の訪問や、キリストの洗礼、カナの婚礼における最初の奇跡など、キリストが人々の前に公に姿を現されたことを記念し、イエスを通して神の栄光がすべての人々に現れたことを祝う。

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-11443006015.html

 

ところで、今朝のヴァチカンでのごミサでは、メシアに会いに東方からやって来た占星術の学者たちの言葉を取り上げながら、三博士の訪問のエピソードにある、「見る」そして「拝む」という2つの態度に視点を向けられた。

 

「博士たちは星を見て行動を起こした」と述べたパパ様は、その星は特別な光り方をしていたわけでも、また彼らがそれを発見する特殊な才能をもっていたわけでもない、それは博士たちが心に望みを抱き、天のしるしを見る、開かれた心をもっていたからであると話された。パパ様はこうした博士たちの態度に、「信じる者」「神への郷愁を感じる人」の姿を見出された。

 

そして、この「神への郷愁」こそが、「救い主を腕に抱くまでは決して死なない」と確信していた老人シメオンを毎日神殿へと向かわせたのであり、この郷愁が「放蕩息子」を自堕落な生活から抜け出させ、父親の抱擁のもとに帰したと説かれた。「『神への郷愁』は、わたしたちをいつもの囲いから引き出し、迎合的な態度を捨てさせ、熱望し求めるその変化に向かってわたしたちを駆り立てます。」

 

「神への郷愁を感じる人は、信仰に励まされ、この博士たちのように、辺境へ、まだ福音の届かない場所へと向かい、そこに神を探し求めに行くのです。」  

 

また、共同祈願では、エスコラピアス修道女会のSr.高木が共同祈願を日本語で祈られた。

 

 

「ベツレヘムの洞窟から溢れ出た命の知らせが、正義と平和の新しい歩みを励ましてくれますように。」非常に美しい言葉だ。光のような命の知らせ。私たちは、正義と平和のために、この良い知らせをもたらせなくてはならない。

 

午後からは、前日お知らせした、コンサートに出かけてきた。サンタ・マリア・プレッソ・サン・チェルソ教会は、サン・チェルソ教会の隣にあるサンタ・マリア・デイ・ミラコリ教会ということ。

 

 

壮麗なファサードは白い大理石で造られているが、レンガ造りが印象的な教会。16世紀の初頭に建てられた教会で、見所は教会内のフレスコ画「奇跡のマドンナ」。17世紀から18世紀にかけてミラノではペストが大流行し(ピーク時は1日約3500人が死亡していたと言う。)マドンナに祈り続け、ペストが治ったとか。

 

コンサートの方は、日本歌曲もイタリア歌曲も素晴らしかった。けれど、やはり福島の聖歌隊とイタリアの聖歌隊が一緒になり歌った、シューベルトのミサ曲、そしてヴィヴァルディのマニフィカートは、声の一致、ハーモニーが天に昇るごとく荘厳で、また日本人のソプラノも透き通るような美しい声で、誰もがうっとりとしてしまう一時だった。

 

アンコールは大好きな"Ave Verum Corpus"。この曲は聖体の秘跡に対する深い信仰がベースとなっている中世の詩であるが、歌詞を知れば知るほど、信者としてご聖体を頂くことの意義を深く考えさせられる一曲。そして、カトリック信者で良かったと思う曲。

 

 

コンサートの後に、祭壇脇の”奇跡の聖母”を拝みに行った。そして、主のご公現の象徴である、幼子イエスに思わず触れてみた。

 

 

いと高き天には、神に栄光。

地には、み心にかなう人々に平和。

 

聖書には、幼きイエスには産着が包まれているというが、プレセピオにみるイエスはなぜか裸が多い。苦笑

 

本来、イタリアの冬休みは今日まで。そして翌日から学校が始まるが、今年は週末とぶつかり2日長い冬休み。さあ、来週から私の日常が始まる...。

 

 

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12235395022.html

78日前

ミラノ市庁舎があるマリーノ宮で行われているピエロ・デラ・フランチェスカ 「慈悲の聖母」(La Madonna della Misericordia)を鑑てきた。

 

 

ピエロ・デラ・フランチェスカの「慈悲の聖母」は、ピエロ・デラ・フランチェスカが生まれたイタリア中部、ウンブリア州のアレッツォのサンセポルクロ市立美術館から持ってこられたもの。

 

ピエロ•デラ•フランチェスカは15世紀に活躍したウンブリア派(ウンブリア地方に始まった画派)最大の巨匠。遠近法や数学者としても活躍しており、画家の著書「絵画の遠近法」というのがあるそうだが、ウンブリア派独自の画風でもある遠近法や明瞭な色彩、秩序高い空間構成などが有名である。

 

ところで、前日友人はお昼過ぎに行ったら、20分で入れましたよ、と言っていたので、私も午後に行ったが、なんと45分も並んだ。一度に30-35人が中に入れられるが、5分は入り口の中で待たされ、5分は絵の説明、そして最後の5分に実物を鑑賞。えっこれだけのために1時間?!と次男は驚いていたが、そう、このために1時間なのよ!!

 

中世の人々は、戦争やペストのような災いは、すべて神の審判であると考えていたそうだ。だからこそ、聖人や聖母の庇護のもとに自らを置き、そうした災厄から逃れたいと祈ったのだろう。聖母マリアがマントを広げ、その下に慈悲を乞う絵はよく見かけるが、「保護のマント」は中世以来の伝統で、信者たちは階層的に、(そして重要な人物は大きく表わされる)小さく描かれ、半円形に片側に4人ずつ設定されている。この聖母の右側には男性(左奥の男性がピエロだと言われている)、または聖職者、左側には女性、または俗人が躓いて、が合掌した形で表現されている。

  

 

ガイドによると、1445年に地元のミゼルコルディア信心会から彼らの教会の祭壇に設置するための作品の依頼を受けたという。信心会は3年以内に彼自身の筆によって作品を完成させることということだっが、実際には祭壇画の制作には弟子の手も入り、信心会の度重なる催促にもかかわらず、17年もの年数がかかったという。シエナの聖ベルナルディーノの頭部に円形の後光が描かれていることから、彼は聖人になった後に描き終わったこともわかる。(聖ベルナルディーノは1450年に聖人に列聖される。)

 

 

ぼけぼけ画像であるが、規則正しい形態にピエロの幾何学形態に対する興味が伺える。マントの円筒形、後光と王冠の円錐形、顔の卵形。マリアの帯は十字の形に結ばれている。そして、聖母左右には、左から聖セバスチャン、洗礼者ヨハネ、聖アンデレ、シエナのフランチェスコ修道会の聖ベルナルディーノと並ぶ。

 

セバスチャンとヨハネの部分がこの祭壇画で最初に描かれた部分とされている。セバスチャンは疫病に対する守護聖人として、ルネッサンス時代からヌードで矢に突き刺された様子で描かれてきた。この聖人像で画家達は人体を表わす試みをしていたという。この聖セバスチャンは無骨で写実的な裸体像になっているが、奥行きのない金色の空間にありながら、人物像は肉と骨でできた人間の身体の丸みがきちんと表わされている。素晴らしい!
 

また、フィレンツェの守護聖人でもある洗礼者ヨハネは喉の病気の守護聖人でもある。いつも身につけている毛皮ではなく赤いマントをつけ、聖母を指し示している。

 

それにしても絵を見る前に、次男にspontiniの切り売りピッツアを食べさせたが、終了が、またお腹が空いたというので、ドウモ広場のクリスマスマーケットにて揚げパンを購入。その後、中華街へ買い出しに出かけたが、そこでもラムネを飲んでいる。どんだけ腹に詰め込めば良いのか?!ったく。とはいえ、学校で学んだというルネッサンス初期の絵の特徴を沢山説明してくれた。「それにしても、あの聖母マリア首が太くて怖いよ。」と指摘。変なところよく見てるんだあ。笑

 

ところで、ミラノの百貨店、リナシャンテのウインドウにディスプレイされていた、”マダムバタフライ”のマネキンをやっとこの目で見ることができた。感動!

 

 

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12222954848.html

 

ミラノの日常 第2弾

作者:ミラノのそふぃあ

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで19年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

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