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ミラノの日常 第2弾

13日前

主のご復活おめでとうございます。


教会の典礼暦の頂点に位置する復活徹夜祭を迎える事ができホッとしている。この日のために、かなり時間と精神を注いできたので、とても清々しい気持ちである。

これからは、子どもたちの学校の学年末に向け、何かと慌ただしくなる。特に次男の中学校の恒例である中世時代のフェスタでは、昨年同様衣装係と旗づくりのボランティアとなった。何で私の空いてる曜日と時間帯知ってるの?と言うような召集礼状??? 一難去ってまた一難?! 何故か常に途切れなく、お役めが回ってくるのだ。いや、自分から泥舟に飛び込んでいるのか??? 苦笑

毎日忙しくて、気づけば脳が24時間フル回転状態。実はやる気はあっても、思考能力はかなり低下しているのを自覚するようになった。そして、気づくと意識が飛んでいる時間さえある。つまりウトウトしているのだが、さすがにまずいぞ!と思う。

というわけで、今回、心身をリセットするために碧い海と青い空を求めて、南仏にやって来た。



イタリアからフランスの国境を越えると海の色が変わる。料理も繊細になる。私はおフランスの開放感が好き。

この20数年間、多分30回以上南仏に通っているだろう。ただ昨年7月、ニースで無差別テロが起きて以来、ニースには立ち寄れなかった。

今回復活祭を迎え、宗教の有無に関わらず誰もが、平和の使者となれるようにと願う。

夏に向け、大通りや海辺の整備もまだ途中。けれど早くも海を楽しむ人でいっぱい。




私は、今回は水着は持ってこなかったが、本を数冊持ち込んだ。太陽の下で、のんびり本を読み、ぼーっとし、心身ともにリセットし、学年末にそなえたいと思う。

14日前

 

主は見守り続けておられます。その愛の力によって、神の民は紅海を渡り、イエスは死と陰府の淵を渡ります。 

 

使徒たちにとっても、それは悲しみと恐れに満ちた眠れない夜でした。彼らは高間に閉じこもり続けました。しかし、婦人たちは、イエスのからだに香油を塗るために、主日の明け方に墓を訪れました。彼女たちは途方に暮れながら自問しました。「どうやって中に入ったらいいのだろう。誰が墓石を転がすのだろうか。」しかし、この偉大な出来事の最初のしるしが現れました。大きな石はすでに墓のわきに転がしてあり、墓は開いていたのです。 

 

「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えた」(マルコ16・5)。空の墓という偉大なしるしを最初に目にしたのも、この墓に最初に入ったのもこの婦人たちでした。 

 

「墓の中に入ること。」この徹夜祭は、婦人たちの体験について考えるのにふさわしい夜です。その体験は、わたしたちにも語りかけています。だからこそ、わたしたちは、眠らずに愛を傾けてくださる神の神秘に入るためにここにいるのです。 

 

この神秘に入らずに復活祭を迎えることはできません。それは何か知的なものでも、知ったり読んだりできるものでもありません。それ以上のものです。 (教皇フランシスコの2015年復活徹夜祭ミサ説教抜粋)

 

復活徹夜祭は、光の祭儀によって盛大に始まる。私は聖歌隊隊員なので、祭壇にいたのだが、暗いお御堂にろうそくを持った信徒たちが徐々に入ってきて、非常に幻想的。テゼの”Questa Notte"を歌いながら、鳥肌が立つような感動を覚えた。

 

 

そのあとに、言葉の典礼として、9つの朗読が入るのだが、毎回朗読のあとに、答唱詩篇の歌が入り、聖歌隊は立ち上がるが、再び座って朗読を聞いていると、ふわ〜っと睡魔に襲われる。11年前のこの日、私は洗礼を受けたが、最前列に座り、9つの朗読、そして司祭によるお説教が終わってから、洗礼と堅信の儀が行われたが、典礼のしおりをぺらぺらとめくっては、あといくつ、あといくつ...と朗読の数を数えてはドキドキし、その朗読の長さが、永遠のように感じられたものだ。

 

ところで、初代教会の時代から、成人の洗礼式は復活徹夜祭に行う習わしがあっという。それは、洗礼が、イエス·キリストが死を通して復活され、父である神のもとにあげられた「主の過越」にあずかることであり、一人一人にとって、古い人間にしに新しい上の子の命に生まれ変わる「過越」だからだ。なので、「主の過越」を記念祭である「復活徹夜祭」こそ、洗礼式を行うのに最もふさわしい時と言えるだろう。

 

ところで、今日ミラノのドウモでは、89人もの成人が洗礼を受けた。内訳は65%が外国人で64%が女性。アルバニア人が31%、続いてイタリア人が多かったようだが、中国人4人、エクアドル人3人、キューバ人2人も含まれていたという。成人洗礼は、教会を豊かにしてくれるという。愛の実践を伴う真の信者として共同体と共に歩めることは嬉しいこと。私が洗礼を受けた時、直接「おめでとう」と言って声をかけてきてくれた人たちは、今思えば、今一緒に聖歌隊で活動している人たちや、教会役員の方々。今日は4歳児の洗礼式が行われたが、共に信仰宣言を唱え、洗礼の約束の更新をした。

 

とにかく信仰とは、観念的なものではないので、実際にキリストとの出会いがなければ、訳のわからない宗教に感じるものかもしれない。上記、パパ様の2015年の復活徹夜祭ミサのお説教では”神の神秘に入る”と言っているが、それは、不思議に思い、思い巡らし、沈黙の中で耳を傾け、静かに囁いておられる神の声を聞き分けることだろう。その神秘に入るためには、現実を恐れてはいけない。自分の殻に閉じこもったり、現実から逃げたり、問題を見てみないふりをしたり、否定したり、忘れ去ってはだめだろう。そして、自分を低くし、神を賛美する。

 

 

 

あなたの優しさを歌わせてください。

人生における全ての強さを歌わせてください。

私たちの喜び全てを歌わせてください。

キリストが復活したことを歌わせてください。

 

「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 」聖パウロはそういった。しかし、目に見えないから貴いものもある。見えないからこそ慕うものもある、ということ。

 

神様の声は、私の、そしてあなたの周囲の人を通して聞こえてくる。同時に、私自身、あなた自身の中にいらっしゃる神様の声に耳を傾けることも忘れてはいけない。この復活祭の恵みに感謝。

 

 

16日前

 

聖金曜日の典礼のもとにキリストの死の神秘を黙想し、十字架を礼拝します。イエスは、ご自分の霊を御父に差し出す直前、地上における生涯の最後の時に、「成し遂げられた」(ヨハネ19・30)といわれました。「成し遂げられた」というイエスのことばには、どんな意味があるのでしょうか。それは救いのわざが成し遂げられたという意味であり、聖書のすべての記述が、いけにえの小羊であるキリストの愛のうちに完全に成就するという意味です。イエスはご自分をいけにえとしてささげることによって、もっとも大きな悪をもっとも大きな愛に変えたのです。

今日でも、ただ信仰を告白するために自らのいのちを差し出す、真の殉教者が大勢います。それは奉仕です。血を流してもなお、キリストをあかしする奉仕です。キリストはわたしたちのために仕えてくださいます。キリストは最後までわたしたちをあがなってくださったのです。それが「成し遂げられた」ということばの意味です。わたしたちがどんな過ちや誤りを犯しても、またどんなによい行いをし、隣人を愛したとしても、生涯を終えるにあたり、皆がイエスのように「成し遂げられた」と言えるとしたら、それは何と素晴らしいことでしょう。イエスが言われたような完璧なものでなくとも、「主よ、わたしはできることをすべてやりました。終わりました」と言うことができたら 、どんなによいでしょう。十字架を礼拝し、イエスを見つめ、愛、奉仕、いのち、そしてキリスト者の殉教者について考えましょう。また、人生の終わりについて考えることも大切です。自分の人生がいつ終わるか知っている人は誰もいません。しかし、「御父よ、わたしはできることをすべてやりました。終わりました」と言えるように、主の恵みを願い求めることはできます。(2015年4月1日の教皇フランチェスコの一般謁見演説:聖なる過越の三日間より抜粋)


古代エルサレムでは、聖木曜日の夜はオリーブ山に集まって祈り明かした人が多かったという。皆は、明け方になってから町に帰り、ゴルゴダの丘の上に建てられた十字架堂に集まって、受難の朗読をピラトの尋問のところまで聞き、その後、昼間で十字架の遺物の崇敬を行った。正午から3時までは、その日に適した聖書の朗読に耳を傾け、さらに、疲れを知らない元気な人はその夜も復活堂に集まり、主の復活に希望をもって祈ったといわれている。 

聖金曜日は、そういった習慣から発展したものだが、単にキリストの受難と死を時間的な順を追って再現するのではなく、人類の歴史全体におけるキリストの受難と死の意味を思い起こし、復活への希望をもって十字架の勝利を賛美するものとなっている。

 

私も地元パロッキアでの「主の受難」の祭儀を終えてから、今度はyoutubeにてパパ様の「主の受難」とコッロセオでの「ヴィア•クルーチス(十字架の道行き)」を見た。

 

「主の受難」の祭儀でのお説教は、パパ様の霊的指導者でもあるカプチン会修道士であるカンタラメッサ(なんというお名前!”ミサ”を歌うという意味!)修道士によるものだった。ライブで観ながら、必死にメモを取ったが、ヴァチカンのサイトでは、イタリア語を始め、各言語の翻訳は随時アップする旨通知があったが、すごいことだと思う。しかも、毎年、聖金曜日に同じ部分のお説教をされておられるのだから、あらゆる角度からの視点に頭がさがるばかりである。

 

「キリストは物事を説明にしに来たのではなく、人々を変えるためにやってこられました。聖書にある”石の心”とは、『神の意志、また私達の兄弟たちの苦しみに心を閉じ、そして果てしないお金を積み、あなたの息子にいっぱいの水さえ与えることの出来ない絶望に無関心なままのことを言います。』『それは、もし、主のために生きるのではなく、自分自身のために生きるのであれば、神の使者の心であり、キリスト者の心であるとも言えます。預言者における神との約束で、肉の心は、すでに世界に存在しています。それは十字架に突き通されたキリストの心臓です。』」といって聖金曜日の受難に言及された。

 

その後十字架の崇敬が行なわれた。十字架と共に助祭が入場、祭壇に向かって進みながら、三度立ち止まり、十字架を掲げ示し、世の救い主キリストがつけられた十字架を見つめ、崇敬する。地元教会では、信者も続いて祭壇手前で横にされた十字架に頭を深く下げ、十字架上のイエスに一人ずつキスしていく。何百人もの人が、直接イエスの足や手の傷跡に唇を重ねる。そこはどうしても日本人的には、毎年拒否反応が出てしまい、唇に手を当てた指先で足と心臓の傷口に触れるだけにしておいた。苦笑

 

そして、十字架の道行きは、イエスが死刑の宣告を受けてから、十字架上で最後を遂げ墓に葬られるまでの過程を14の場面(留)に分けて黙想する信心業。黙想を助けるためのテキストは、今年はフランス人の聖書研究学者Anne-Marie Pelletierによって準備された。それは女性たちの存在、そして戦争や移民、家庭の苦しみや児童虐待などが浮き彫りにされていた。

 

いよいよ、復活の主日「復活の聖なる徹夜祭」を迎える...。


本日の「十字架の道行き」の式次第
http://www.vatican.va/news_services/liturgy/2017/documents/ns_lit_doc_20170414_via-crucis-meditazioni_it.html

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12265479285.html

16日前

 

ついに、カトリック教会の典礼の頂点である「主の過ぎ越しの聖なる3日間」に入った。


第1日目の聖木曜日はいわゆる、「最後の晩餐」のミサか「洗足式」が行われるが、それとは別に、伝統的宗教行事として、各教区の司教座聖堂にて「聖香油」のミサが執り行われる。聖香油のミサは、聖木曜日に各教区の司教座聖堂において司教と司祭によって共同司式されるもので、この中では司祭の約束の更新と司教による聖油の祝別が行われる。

 

「最後の晩餐」では、聖体を制定し、また「洗足式」では、イエスが弟子たちの足をお洗いになられたことを象徴とする儀式。これは本当の愛の模範を示すものと言われ、パパ様も刑務所を訪問され、受刑者の足を洗うことが恒例となっているが、我がパロッキアは毎年、「最後の晩餐」のミサを祝う。

 

聖木曜日は、聖体が制定された日だけではありません。確かに聖体の輝きは他のすべてのものを満たし、いわば自らへと引き寄せます。しかし、聖木曜日には次のことがらも含まれます。まずオリーブ山の暗夜です。イエスは弟子たちとともにこのオリーブ山に出かけます。イエスの孤独と、見捨てられたことです。イエスは祈りのうちに死の闇に直面します。ユダの裏切り、イエスの逮捕、ペトロの否み、最高法院での告発、異邦人であるピラトへの引き渡しです。このときにあたり、これらの出来事についての理解を少しでも深めたいと思います。なぜなら、これらの出来事のうちにわたしたちのあがないの神秘が行われたからです。イエスは夜の中に出て行きます。夜は交わりの欠如を意味します。それはわたしたちが互いを見ることのできない状況です。夜は無理解と、真理が覆われることの象徴です。夜は、光を前にして隠れなければならない悪が広まる場です。イエスご自身は光であり、真理であり、交わり、清さ、いつくしみです。このイエスが夜の中に入ります。要するに夜は死の象徴です。交わりといのちが決定的に失われることの象徴です。イエスは夜の中に入ります。それは、夜を圧倒し、人類の歴史の中で新たな神の日を始めるためです。(2012年、教皇ベネディクト16世の主の晩餐のミサ説教 抜粋)

https://www.cbcj.catholic.jp/2012/04/05/8588/     

この言葉は、我がパロッキアの聖木曜日のミサの式次第の内表紙にも書かれてもいる。

 

入祭の歌。”E lo credemmo abbandonato da Dio" (Sequeri)

 

 

あまりにも美しい旋律で歌っていて、涙が溢れてきてしまう。

Ora ti chiedo umilmente, mio Dio di perdonare il mio cuore insicuro:  

dammi la forza di accogliere ancora la Tua parola, il Tuo gesto d'amore

「神に見放された彼を信じ」

私の神よ、今あなたに、伏して赦しを願います。自信のない私をお赦しください。あなたの御言葉、あなたの愛の行いを再び受け入れる力をお与えください...

 

Inno Giovedì Santo  "SCIOGLIAMO A CRISTO UN CANTICO"

 

 

日本での聖木曜日のミサの様子は全くわからないが、こちらはアンブロジアーノ典礼の詠唱。(福音書朗読の前はアレルヤ唱を歌うが、四旬節は「詠唱」を歌う) 

 

 

 

 

また、ローマ典礼では、ヨハネ13:1-15章を読むが、アンブロジアーノ典礼はマタイ26:17-75(時に途中省略)を読む。

 

拝領祈願の後、司祭は裁断上の聖体に献香してから、翌日の聖体拝領のために聖体を別の安置所に移したため、ミサ閉祭後も祈りを捧げる人が多く、また告解待ちの人も多かった。

 

そして、祭壇上のすべてのものが取り除かれ、裸の状態となった。キリストの受難と死が始まったことのしるしとされる。

 

「受難と十字架から来る救いは、「だれもわたしから命を奪い取ることは出来ない。わたしはそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」(ヨハネ10:18)とあるように、イエスの神に対する信頼と覚悟の表れなのです。これから自分の身に起こることに対する、イエスの認識と承認とも言えるでしょう。」(レナト•フィリピーニ神父様著書「聖週間を生きる」より抜粋)

 

明日の聖金曜日は、この言葉を受け止めて過ごしたいと思う。

 

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12264276274.html

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12143132544.html

 

18日前

以前も書いたが、ミラノの藤はちょっと凄い!
http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-11816512564.html

日本のように藤棚に綺麗にお行儀良く咲く藤とは比較できない、野性の強さを持っている。
そして、白い藤もよく見かける。

 

 

白といえば、このスミレも珍しく感じ、思わず写真を撮ってしまった。

 

 

桜 → モクレン、レンギョウ → 八重桜、ツツジ、マルゲリータ、タンポポ... → 藤....花々が一気に咲き、そして一気に咲き終わると、また次の花々が一気に咲き始める。今日は近所で、名前はわからないが、白とピンクの花々を見つけた。ジャスミンのような優しい香り。

 

 

「春爛漫」とは、光あふれんばかりに春の花たちが咲いている様子を表す、というがまさに今がそう。また、「春爛漫」は花のことだけではなく、人々の希望に満ち溢れた様子のことも表現しているという。

 

最近では、なかなか日本語で手紙を書くこともないが、4月の時候の挨拶として「春爛漫の候」と使うほか、人々の希望に満ちた様子も表すので、入学式などの挨拶にもよく使われるという。
 

春爛漫。今が、ミラノの一番いい季節。あっという間にポプラの綿毛がふわふわと飛び回る鬱陶しい季節になり、気づけば夏に突入してしまう。

 

復活祭を目前にイタリアの学校は来週の火曜日までお休み。そして、4月25日はイタリアの「解放記念日」。学校によっては25日まで連休になるところもあるようだ。この気持ちいい季節、ボケーッとしながら、お花見ピクニックにでも行きたいな〜。

 

ミラノの日常 第2弾

作者:ミラノのそふぃあ

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで19年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

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