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ミラノの日常 第2弾

65日前

 

 

空手仲間の大学生で映像関係の勉強をしているJが大学の課題として「日本の文化」をテーマにビデオを作成した。是非是非広めて欲しいということで、ここにご紹介する。

 

彼女は母方の祖父が日本人であったのでクオーター。しかし、母親は両親同士は英語で、親子、兄弟間では、イタリア語での生活だったそうなので、日本語は解するが、話し、読み書きすることができない。そして、親類は既におらず、今や日本へ行っても、立ち寄れる場所がないという。なので子供たちも残念ながら日本語や日本文化は継承されていない。それでも、やはり自分たちのルーツを探りたいのか、家族で空手を学び日本文化に興味を持ち続けるのは素晴らしいことだと思う。

 

さて、ビデオは数人の日本人の目が開くところから始まる。私も「目」の目ヂカラと(!)後に出てくる「手」だけ出演!爆

 

そして、日本の梅雨、つまり初夏を思い出す映像が続く。彼らのお宅には、日本から取り寄せたというヒノキのお風呂があり、縁側ではないのだが、ちょっとしたスペースに置かれており、しかもそこに竹と紅葉が植えられており、非常に風流。

 

インタビューは、我ら琉球空手少林流空手道「月心会」イタリア本部の師範によるものだが、師範の「ミラノにおける日本」の見解は非常に興味深い。

 

「ミラノに日本はあるか?というと、あるといえばあるし、ないといえばない。」というのは、非常に曖昧だが、それでいて的を射た答えだと思う。

 

海外で日本...といって思いつくといえば、日本食、日本人学校、また文化といえば、武道や「道」のつくもの。

 

日本食は今や世界遺産に登録され、世界に誇れる文化であるが、ミラノの日本食レストランでは、食材に限界があり、本来の伝統的な食文化を伝えるには限界がある。

 

そして、日本人学校。児童生徒、先生は皆日本人。であれば、そこは日本か?といえば、異なる。児童生徒のほとんどは駐在員家庭で、必ずしも日本で育ち日本で教育を受けた子供、というわけではないので、日本国内での日本人ともまた異なるし、やはり少人数である分、授業内容も充実し、十分に目が行き届いているようだ。

 

また、「道」がつく文化。それらは一生をかけて、自分の生き方を学ぶものであるが、日本のそれぞれの道場には「気」を感じられる。しかし、海外でのそういったところでは、やはり本来の日本の場、雰囲気が異なるといっても仕方ないことであろう。

 

その他、自然の美しさや季節の移ろいなどに関しても、イタリアに四季があるとはいえ、日本のような情緒豊かな雰囲気ともまた異なる。また、お正月などの年中行事との密接な関わりもやはりない分、食を分け合い、時間を共有することでの家族やコミュニテイでの絆、というのにも限界が出てきてしまう。

 

我が家は日本人家庭であるが、子供達に日本人の精神、また日本特有の価値観や生活様式、社会的伝統が継がれているか?といえば、疑問だ。

 

それでも逆に、日本にいるよりも、日本人としての意識が高くなることもあるのが不思議。

 

ところで、海外にいると、度々「在外邦人」という言葉を使ってしまう。邦人の「邦」は「国」のことで、邦人は自国の人という意味になる。なので、日本から見て自国の人は日本人であるから「邦人」と呼び、対義語は「異邦人」。

 

けれど、日本にいる日本人を「邦人」と呼ぶことはなく、多くは外国にいる日本人を指す際、用いられる。

 

とはいえ、旅行などで短期間だけ外国に滞在する場合は「日本人」と呼ばれ、仕事などで在留している場合は「邦人」と呼ばれ、上記同様「海外在留邦人」「在外邦人」と呼ばれる。また、政治経済の硬い話題や、災害や事件、事故に巻き困るケースなどは在留している日本人を「邦人」と呼び、ノーベル賞受賞や何か賞賛されるようなケースは在留邦人であっても「日本人」と呼ばれたりするので、その違いはなんなんだ?!と頭をひねってしまうことも多々ある。

 

...と話は逸れたが、私の根っこは遠く離れた日本にある。あまりにもイタリア化してしまったため、日本へ行くと、浮いてしまいがちだが(!)日本人としての誇りもある。

 

子供たちが今、どう感じているかわからないが、根無し草とは思わず、日本人としての誇りをもって欲しいし、いつか自覚する日が来ると願う。そういう意味では、このビデオを作ったJ一家も限界の中で、ミラノにある日本を通じて、自分たちのルーツを探し求めているのだろうか?と感慨にひたりつつ、何度もビデオを見た。

 

 

 

 

 

 

66日前

 

 

6月1日

Ringrazio Dio per i genitori che cercano di vivere nell’amore e vanno avanti anche se cadono tante volte lungo il cammino.
愛のうちに生きるよう努め、何度も道で倒れても前進し続けている親である皆さんのことを、神に感謝します。

 

 

6月2日

Possa l’Italia progredire e prosperare nella concordia, offrendo il suo prezioso contributo alla pace e alla giustizia nel mondo. 
イタリアが, 世界の平和と正義に意義ある貢献をしつつ、一致のうちに向上と繁栄しますように。

 

Nell’oscurità dei conflitti che stiamo attraversando, possiamo essere candele accese a ricordare che la luce prevale sulle tenebre.
私たちの行く手を阻む争いの闇の中で、私たちは、光は闇に勝つことができることを思い出させてくれる明かりの灯ったロウソクになることができます。

 

 

6月3日

Promuoviamo con coraggio tutti i mezzi necessari per proteggere la vita dei nostri bambini.
私たちの子どもたちの命を守るために、勇気を持って必要なあらゆる手段を推進していきましょう。

 

 

6月4日

Lasciamoci guidare con docilità dallo Spirito Santo per non sbagliare strada e non cadere nella chiusura del cuore.
道を誤ったり心を閉ざすことに陥らないよう聖霊の導かれるままにしましょう。

 

 

6月5日

Non dimentichiamo mai che l’ambiente è un bene collettivo, patrimonio di tutta l’umanità e responsabilità di tutti.
環境が公共財であり、全人類の遺産、そして皆がそれに対し責任を持っているということを忘れないようにしましょう。

 

 

6月6日

Ricordiamoci sempre che la nostra fede è concreta: il Verbo si è fatto carne, non si è fatto idea!
私達の信仰は常に具体的であることをいつも忘れないようにしましょう。御ことばは観念ではなく、肉となリました。

 

 

6月7日

La Chiesa ha bisogno dei santi di tutti i giorni, quelli della vita ordinaria, portata avanti con coerenza.
教会は、普通の生活の中で、信仰を貫く日々の生活の中での聖人を必要としています。

 

 

6月8日

L’umiltà e la tenerezza non sono virtù dei deboli ma dei forti.
謙遜と優しさは弱さの徳ではなくむしろ強さの徳です。

 

 

6月9日

Ciascuno di noi, come membro vivo del Corpo di Cristo, è chiamato a promuovere l’unità e la pace.

キリストの体の生きる一員として、私たちは各自、一致と平和のために働くよう招かれています。

 

 

6月10日

La vita può sopravvivere solo grazie alla generosità di un’altra vita.
人生は、他者の命の寛大さのお陰のみ生き残ることができます。

 

 

6月11日

La festa della Santissima Trinità ci invita ad essere lievito di comunione, di consolazione e di misericordia.
三位一体の祝日は、ご聖体、慰め、そして慈しみを膨らますパン種となるよう私達を招いています。

 

 

6月12日

La Chiesa risplende quando è missionaria, accogliente, libera, fedele, povera di mezzi e ricca di amore.
教会は、宣教者であり、人々を温かく迎え、見返りを求めず、誠実で、物質的には貧しくても愛において豊かである時輝きます。

 

 

6月13日

Nella sua Passione Gesù ha preso su di sé tutte le nostre sofferenze. Egli sa cosa significa il dolore, ci capisce, ci consola e ci dà forza.
イエスはご自分の受難において、私たちのの苦しみを全て負われました。彼は、その痛みの意味をご存知で、また私たちを理解し、慰め、力を与えてくださいます。

 

 

6月14日

C’è tanto bisogno di preghiera e di penitenza per implorare la grazia della conversione e la fine delle tante guerre nel mondo.

回心と世界で多く起きている戦争の終結の恵みを切に願う祈りと、悔い改めが多いに必要です。

 

 

6月15日

L’esistenza di ciascuno di noi è legata a quella degli altri: la vita non è tempo che passa, ma tempo di incontro.
私たちの存在は、他者の存在と結ばれています。人生は、ただ過ぎ去るものではなく、互いに関わり合うものなのです。

 

 

Papa Francesco@Pontifex_it

 

 

パパ様は今年度の「世界宣教の日」のテーマを発表された。

 

世界宣教の日は毎年10月の最後から2番目の日曜日に記念される。今年は10月22日の日曜日。この日は、全ての信者に宣教の心を呼び起こさせ、世界に福音が広まるように祈るとともに、宣教者たちへの精神的•物質的援助、宣教者間の交流の推進などが呼びかけられる。

 

その今年の「世界宣教の日」のテーマは、「キリスト教信仰の中心にある宣教」。

パパ様はこのメッセージで、教会の本質としての宣教性を改めて示し、世界は福音を必要としていると呼びかけている。

 

世界宣教の日は、教皇ピオ11世によって認可され、昨年90周年を迎えた。困窮しているキリスト教共同体を支え、世界の隅々まで福音を告げ知らせる活動を力付ける。

 

世界の人口は、現在、約63億だと言われている。そのうち、カトリック信者は、約10億人。今月1日に発表された「カトリック情勢」によると、日本のカトリック信者(聖職者、修道者含む)は2016年末の時点で44万1107人となった。前年と比べ2614人減っている。日本の全人口に対する比率は約0・34%。ちなみに、ミラノ大司教区は、教区人口の91.2%の 4.970.975人と言われている。

 

そういう意味では日本のカトリック信者はほんのわずかで、そしてミラノにいる日本人信者というと、もっと珍しい存在?になるのだ。

 

そのわずかの私達であるが、この「世界宣教の日」に、宣教について思いを馳せ、祈り、献金し、物的・精神的援助をすることによって、宣教地で苦労を重ねている宣教者のお手伝いができたら...と思う。

 

私達一人ひとりはキリストの弟子として、宣教のために自分に与えられた賜物を多くの人に分かち合うように派遣されていることを忘れないように。

 

 

69日前

 

 

長い長い夏休みに突入したが、一番大切なのは、生活習慣。

 

多少寝坊助になることは仕方ないとはいえ、夜遅くまで起きていて、午前中は眠るなど、言語道断。しかも、テレビ、ゲーム、SNS三昧何ぞ、とんでもない!これは世の中の将来を担う子供達の成育環境の深刻な問題だ。

 

ところで、現在の教育プログラムでは「情報処理」型に準じているが、時代は超スピードで変貌しており、「情報処理能力」のみでは、やっていては、いずれを遅れを取る日が来るかもしれない。

 

そこで、今年の空手の夏休みの宿題として、「情報編集能力」が必要となる日がきっと来る(師範曰く)のだそうで、その時代に合わせた能力を引き出すプログラム(夏休みの宿題宿題)が奨励された。正確で必要な情報のみを取り入れ、それを自分なりのフィルター(自分の世界観、自分の価値観)を通して、再編集し、アウトプットさせながら、新聞を作るというもの。

 

周りの意見にただただ同調するのではなく、いろいろな物事に対し、自分なりの疑問、考えを持つことが大切であり、その能力を身につけるために、「新聞」を作ろうというもの。

 

さあ、大変だ!今回は超難題だ!

 

愚息たちがするとは思えず。けれど、昨年同様、私は何を書くかな...と密かにウキウキワクワク思案中。苦笑

 

 

 

https://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12042645500.html

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12168610833.html

 

70日前

 

ついに今日から夏のオラトリオが始まった!

 

新聞によると、イタリア全体では200万人の子供達が夏のオラトリオに参加。今年初参加のアニマトーレは40万人だと言う。

 

また、イタリアには8,245もの教区教会があるという。そのオラトリオがイタリア人のカトリック信者のみならず、他宗教の子供達と共に過ごし、祈りの場を1ヶ月もつ。

 

もともとオラトリオとは、サレジオ会の創立者•聖ヨハネ•ボスコが助けを必要とする青少年のために作った学校が始まりだ。

 

社会や家族から見放されていた多くの若者達を健全な青少年に育てて行くと言う、独自の教育理念である宗教•理性•慈愛を土台とした予防教育。

 

この教育は家庭的雰囲気の中で、生徒と教師がお互いに愛と信頼で結ばれ、子供達が自ら考え、行動し、自分で納得して伸びていく教育...。裕福でお行儀のよい子供達の集まるパロッキアよりも、ある意味、私の所属する人種の坩堝、宗教の坩堝であり、経済的にも、家庭環境的にも複雑で困難な状態におり、共同生活もそうそう一筋縄にはいかないような子供達と共に過ごす方が、課題も多く、逆に各自ボランティアに与えられた使命感、そして神との信頼関係も大きいと信じたい。

 

ところで、我がパロッキア初日の参加者はアニマトーレも含め140人前後。友人のところは400人というからまだまだ少ないのだが、行ってみたら、まだケータリングの食事が届いていなかった。けれど、テーブルの水が準備されておらず、ゴミ箱のビニール袋や掃除の備品がどこに置いてあるかわからず。昨年は気が利かないアニマトーレも多かったが、やはりそれは促し方にもよる。

 

あれっ食後の果物は?毎年、隣のシスターの学校から果物の寄付がたっぷりあるが、来ていない。隙を見て、隣の学校へ走る。「えっ?昨日杏大量に運んだけれど」と言われ、今度は担当司祭のところへ走る。「あれっ司祭館に持って行っちゃった。じゃあいい、明日にしよう」しばらくして、シスターが大量のパンを持ってきてくれたが、時すでに遅し。結局全て冷凍にすることになったが、バールの冷凍庫がアイスがいっぱいで入れる場所がない!いきなり冷蔵庫の整理にかかる...私は何をしているのやら?やっと整理整頓ができたら、今度は冷凍にあったフライドポテトをしまう場所がなくなる...結局それは司祭館へ。何をやっているのやら...

 

食後、掃除の指示をしつつ、私も洗い物にバールのキッチンへ走ると、神学生がジェラート販売にてんてこ舞い。値段がわからん!というので、結局横について補佐。あまりにも暑かったので、アイスキャンデーが飛ぶように売れていたが、そういえば今日のおやつは?と思い出し、司祭に聞くと、じゃあアイスキャンデーにしよう!という。え???数足りる?冷凍庫から再び箱を取りだし、数えてみたら、残っていたアイスキャンデーは89個。足りないじゃん!毎週月曜日にアイスの卸売り業者がやってくるが、予定は17時半。おやつは17時。間に合わないじゃん!そして、お金もないじゃん!というわけで、またまた走り回り...

 

その合間に、オラトリオに申し込みたいんですが...という北アフリカ系の母子が入口に来ており対応。では明朝直接来てください、といってもまずは見学がしたいという。それはできません、といっても納得してもらえない。すると今度はベールをしたイスラム教徒の母親二人が来て、預けた子供達を連れて帰りたい、と言う。終了時間は17時半なのでその時に来てください、と言ったが、16時でもいいと言われたというが、まず有りえない。ここでも食い下がらず、二件を神学生に任せてしまう。

 

16時までの予定が気づいたら17時近くになっていた。本来の助っ人の大人は急遽ドタキャンもいたが、飛び込みで手伝いにきてくれた人も数名おり、本当に助かった。夕方はまた別の人が来るというので、もう一人の責任者が来た際、必要なことを伝えてやっと解放された。

 

そうだ!私は先週の土曜日から空手の稽古のストレッチングで無理に伸ばした足の筋肉痛に悩まされていたんだわ!どっと痛みが蘇り、ぎこちない歩き方...

 

「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来た」 
私たちは、そこにイエスのお姿を見なくてはならない。

 

疲れた〜。けれど、すごい充実感。誰か一人が仕切ったり、抱えることもなく、気持ち良く仕事ができた。第1日終了。

 

 

 

 

71日前

 

上記はこの夏のオラトリオのアニマトーレの公式Tシャツとロゴ。

 

明日から一ヶ月、夏のオラトリオが始まる。オラトリオでのボランティア3年目。しかも責任者昇格! 苦笑 って偉い訳じゃありません。誰もいないから。涙

 

ミラノ大司教区には約1000ものパロッキア(教区教会)があるのだが、今年の夏のオラトリオの申込者は例年の10%を越え、40万人が参加すると言われている。3月にパパ様がミラノ司牧訪問された際、パロッキアに行こう!オラトリオに行こう!とおっしゃった影響もなしにはあらずだろうし、この長い夏休み、子供達は何かしらの夏のコースに参加したりするものだが、どれも有料で金額もピンキリ。市が行うものは、人数制限もあり、予約がすぐにいっぱいになってしまったりして、結局手軽なのが、地元のオラトリオ。カトリック信者だけを受け入れるのではなく、祈りの時間はあるものの宗教関係なく、誰でも受け入れる。

 

話は前後するが、パパ様がミラノ訪問された際、オラトリオへ行こう!という話題は、ある俳優も自分はオラトリオで成長したということ、オラトリオがいかに素晴らしいか、と言い、散々TVやネット、雑誌などで取り上げられたのだが、ある月曜日、私がオラトリオの担当の際、イタリア人のご婦人がいらして(しかし私が行く日曜日のミサにお見かけする方ではなかった)、「パパ様はオラトリオへ行こうと仰ったが、なぜ、このパロッキアはイタリア人の子供達が少ないのか?なぜポポラーレ(低所得者地域)の子供達、特にアラブ系を受け入れるのか?彼らは非常に躾がなっておらず、しまっているオラトリオに忍び込んでいるのも見たけれど、放っておいて良いのか?」などなど言ってきたのだ。確かに、それはすべて事実である。このサンシーロ地域は、人種、宗教の坩堝であり、貧富の差も激しい。我が家の子達も、このオラトリオにだけは来たくないと言ったし、実際次男は2年間夏のオラトリオに参加したが、いつも嫌な思いをすることがあって、行かない、辞める!と大騒ぎする。

 

これは、はっきり言って宗教の問題ではなく、家庭環境の問題であろう。経済的なものもあれば、家族の形の問題でもある。けれど、それを今言ったところで始まらない。彼らをいかに教育というと上から目線かもしれないが、心から受け入れてあげて、心を開かせ、共に生きること、協力しあうことの素晴らしさを教えるか...と言いたいところだが、あまりにも理想的すぎるな、美談すぎるな...と私自身、気が萎えてしまうというか、疑問と葛藤が残る。これは地域への挑戦、そして私自身への挑戦でもあるな...と思うのだ。

 

ところで、夏のオラトリオは申し込みに15ユーロかかるが、参加日は一週間5ユーロ。つまり1日1ユーロ。朝の8時から9時半くらいまでに行けばよく17時まで。食事は週3回、1食2.5ユーロ。週に2回、遠足とプールに行くが、随時少額ではあるが、お金がかかるので、参加、不参加は自由。少なくとも3日間、食事のある日は本来は宗教上、または健康上問題がある人のみ、持ち込みを許していたが、最近は経済的問題もあるので、持ち込みを許している。昨年までは、パロッキアに住み込みの男性が1度に10キロのパスタを準備していたが、彼も定年でいなくなってしまい、作る人が誰も見つからず、聖歌隊のメンバーでケータリングサービスをしている人のご好意で安く引き受けてもらった。以前は、おかわりは自由だったが、人によっては2杯はいいとしても、3杯も4杯も食べられてしまうと、やはり不公平感が出てきてしまう。なので、今年は、お金を払った人のみに提供し、くれぐれもお代わり無し!と言われているが、厳しいなあ...と思う。

 

友人のお子さんがアニマトーレをするオラトリオ(比較的移民は少ない)は400人の子供達を受け入れるというが、我がオラトリオはせいぜい150-180人くらい。それでも元々資金のないところに支払えない家庭も多く、それでも受け入れるわけだから、じゃあたりない分は実質上どうするの?という問題が出てくる。きっと担当司祭も悩んだのだろうが、”地域の心ある信者の方へ”という手紙が各家庭のポストに入っていた。

 

それには、この地域での移民問題、そして経済格差(イタリア人でも南イタリアからの移民が多く、職業的にもホワイトカラーというよりは、ブルーカラー、または失業中という人も多い)などなどが綴られており、オラトリオの子供達の将来のために協力を頼む、というものだった。だが、どれだけの人がそれに賛同したものかどうか...特に私の住む通りは、本来私の通うパロッキアが所属だが、隣のパロッキアに通う人がほとんど。長男が小学生時代に小学校をそのパロッキアの前にある学校にかえたため、クラスメートは皆カテキズモにそこへ行くからといって、彼も所属教会の変更届けを提出してそのパロッキアでカテキズモを受け、洗礼、初聖体、堅信を受けた。そのため、私もそのパロッキアにもちょくちょく顔をだしていたが、まず同じ地域でありながら、ぐっと雰囲気の違う通りにあり、やはり通う信者の生活層の違いは明らかだ。それで人間に差があるのか?と言ったら、話は違う。それ以前に、そう比較すること自体、カトリック信者として正しいことではない。けれど逆に、共同体としての横の付き合いが表面的のような、よそよそしさを感じるものがあった。そこでの夏のオラトリオは毎週、ピエモンテ週の山へキャンプへ行くだけで、パロッキアは閉まったまま。全体としてのオラトリオの活動はない。それでも富裕層であれば、別にオラトリオにこだわらず、プライベートの夏のコースへ子供を通うわせることは可能だ。

 

司祭の手紙の件に戻ると、夏のオラトリオを維持するための里子プログラム、また中学生のキャンプ、高校生以上のキャンプ、またパロッキアの暖房費支払い協力の嘆願書でもあった。高校生以上に関しては、7月にナポリのスラム街でのボランティア活動を行うための旅費及び維持費への協力依頼であった。さすがに私も収入があれば、多少は寄付ができるものの、自分が自由に使えるお金がないからそうそう寄付はできない。

 

それにしても、ここ数年オラトリオでボランティアをしてきて思うのは、助け合いはもちろん大切だ。ただ、助けられることに慣れてしまい、ずーっと与えられ続け、徐々に自立心を失っている人々も見かける。じゃあそこで劣等感が生まれているのか?というとそうでもなさそうだ。決して私は自分たちの方が優れているとは思っていない。思うはずがない。けれど、何か変だ。しかも、言動の悪い子供たちに会うと非常に心が乱されてしまう。私はここで何をしているのだろうか?とさえ思ってしまうのだ。

 

ボランティア仲間の中には、自営で働きながら、昼休みを利用し、急いで地元に戻ってきて手伝っていく人もいる。寄付、与えられるものは、お金だけではない。時間だってそうだ。時間は貧富の差なく、皆平等なのだから、その中で時間を作って誰かのために役立とうとする努力は立派だ。なので、私は、オラトリオに参加する保護者も何かしらの形で協力できないものなのか?とも思う。

 

責任者となり、夏のオラトリオをサポートする大人、保護者を取りまとめているが、蓋を開けてみないとどれくらいの子供たちがやってきて、しかもどんな子たちがやってくるのかわからないが、スタッフのドタキャン、手伝いできる曜日の変更なども多々あり、明日からどんな生活になるのかドキドキハラハラ。

 

また夜10時を過ぎて、知らない番号から私の携帯に電話が入った。いたずら電話、迷惑電話も多いため、嫌だな...と思って、しぶしぶ出ると、南米訛りのイタリア語だった。また、詐欺まがいの電話か!(先日無線タクシーを呼んだくせに私がこない!という南米なまりのクレームの電話があった。誰が、電話したって?私がしてないっていってるんだからしてるはずないでしょ!と激怒した。)と思うと、オラトリオを手伝いたいのだが、T子と直接話して!と司祭に言われて、この番号をもらった...という話だった。ボランティアのドタキャンのしわ寄せに頭を抱えていたので、救いの電話であった!

 

いやいや、明日は蓋を開けてみないと何がどうなるのかわからない。そしてこの地域が抱える問題は根が深い。私の苦悩と葛藤は続きそうだ...

 

 

ミラノの日常 第2弾

作者:ミラノのそふぃあ

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで19年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

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